ユダヤ教、キリスト教、イスラム教にとって、共通の祖アブラハムに約束された土地を〝カナン〟という。その中心が、聖地エルサレムである。これまでそこを訪れるたび、必ず立ち寄るレストランがあった。とてもおいしい地元の料理〝フムス〟を味わえるからだ。
その店は、城壁に囲まれたエルサレム旧市街でも、イスラム教徒が多く暮らす地区の狭い石路地にある。いつも、奥の厨房からスパイシーな匂いが漂っていた。ほっこりゆでたヒヨコ豆と白胡麻ペーストをあわせて練り、円盤状に盛りつけたフムスを目当てに、小腹のすく時刻によく立ち寄った。
このフムスをめぐっても、パレスチナ人とユダヤ人には論争がある。ようするに、どちらが元祖で、どちらが美味しいかということ。わたしが通った店では、パレスチナ風にクミンやパプリカがふりかけてあった。でも、イスラエル風にフムスをコロッケのように揚げたファラフェルを、平焼きのピタパンにはさんだサンドも、絶品だった。
その店に通ううちに気づいたことがある。ときどき、ユダヤ系とおぼしき人もパレスチナのフムスを食べている。それに、パレスチナ人だって街なかでファラフェル・サンドをほおばっていた。食べ物は単純だ。おいしいと思えるほうに軍配が上がる。人間にそなわった味覚には、民族や宗教や政治の垣根はない。そんなことがあって、短編小説『カラット天秤』(『漆黒のピラミッド』所収)を着想した。
昨年10月末に放送されたユーロ・ニュースが、ベルリンにある〝カナン〟というレストランを紹介していた。ユニークなのは、そのレストランの2人のオーナーシェフが、パレスチナ人とイスラエル人ということ。「アイデンティティーは違っても食卓を囲むときはひとつ」と、9年つづいた店だが、パレスチナのハマスとイスラエル軍の戦闘が始まって店を閉めたそうだ。
反アラブと反ユダヤのどちらからの嫌がらせも怖れたためだ。けれども、そのニュースによれば、ベルリンの中東系の店が同じように閉めていると知って、2人のオーナーは「再開を決めた」という。「わたしたちは(世界とは)なにか違うことを示し、違うものでありたい」と、コメントした。
現在、パレスチナ自治区のガザでは、5カ月間に3万人が死亡し、100万人が難民になった。全人口の1/4に「飢餓が迫る」と報道され、状況はジェノサイドに近づいている。愚行がどれだけ繰り返されても、国家や政治の残忍さが改まるわけではない。むしろ変わらなければならないのは、政治と社会の偏りから自立する個々人の行動に思える。