南寄りの春風が吹く日には、鎌倉の海がいつもより明るく見える。波しぶきが光の輝きを増すせいもあるだろう。南風をまちわびたウィンドサーファーたちが、色とりどりのセイルを張って繰り出すせいかもしれない。
16年前に、ハワイのマウイ島を妻と一緒に訪れた。そのときも、島の西側にあるラハイナの近くの入り江には、色鮮やかなセイルが美しく滑走していた。なんとも言葉にならない透明な空気感につつまれて、こここそ地上の楽園と思えた。
ラハイナの海ぞいの道をドライブしていると、星条旗を斜めに掲げたコロニアル風のグリーンの建物が気になった。車をとめて看板を見あげると〝楽園のチーズバーガー〟とある。「まさかの偶然だろうか」と、ふと思って立ち寄った。
ベストセラー作家で歌手のジミー・バフェットに〝チーズバーガー・イン・パラダイス〟という曲があった。西海岸かフロリダ風のゆるいカントリーで、1970年代にヒットしたはずだ。ベジタリアンに挑戦したけれど、なりきれなかった肉食系の船乗りの歌——「おれは、楽園のチーズバーガーさ!」と、捨て鉢なフレーズが情けないけれど憎めなかった。
とびっきりのミュンスターチーズとミディアムレアの肉、オニオン・スライスをはさんだ地上の楽園……のドアを開くと、チアリーダーのようにはつらつとしたホールスタッフが微笑んだ。LEDがぴかぴかするマグカップを見せて、No1カクテルのマイ・タイをすすめられたが、運転中で飲めない。
ノンアルコールを頼むと、ややそっけない目線が気になる。だが、ぼくは菜食主義者ではない。バーベキュー・ベーコン・チーズバーガーを注文した。お約束のフライドポテトと、ハインツ〝57〟のケチャップも忘れずに。まぶしい笑顔のスタッフが、ぶ厚いバーガーをのせたトレイとマグカップを運んでくれた。
青い海が見える窓辺のテーブルだった。「ときどき、沖にクジラの群れがやってきます」と、その親切なスタッフが教えてくれた。それから——。近くの公園のバニアンツリーのそばで、ウクレレを教えてくれたおじさん、甘いパイナップルを真剣に選んでくれた果物店のお兄さん、いつまでも忘れないだろう。
2023年8月8日、マウイ島での山火事のニュースを知って、言葉を失った。ニュースの映像で見たラハイナの街に、かつての面影はなかった。海ぎわにあった〝楽園のチーズバーガー〟のエリアも、ほとんど焼け落ちている。あの穏やかで優しい人たちが、みな無事に避難していてくれるよう願った。
8月12日の最後のSNSに、感謝と支援を求める言葉が投稿されていた。「恐怖にとらわれているとき、みんなの心配とあふれる愛に、心よりマハロ(ありがとう)。みんなともにいてくれるから、わたしたちは孤立していない……」
いまもインスタグラムには、ホスピタリティーの記録が残されたままだ。いつか必ず、あの地上の楽園がよみがえる日のために。