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執筆者の写真横村 出 / Izuru Yokomura

新聞記者 伊藤正孝の見た南ア ⑵

人種隔離を意味するアパルトヘイトとの戦いを象徴する出来事が、1976年に起きた。ヨハネスブルグ近郊にあるタウンシップ(黒人居留区)の〝ソウェト蜂起〟である。非白人の労働力に依存しながら隔離する政策は、自ら社会のうちに矛盾を抱える。伊藤は、南アフリカで最大のスラムだったソウェトに潜入し〝白人要塞〟がひた隠す不都合な真実を暴露した。


そのルポルタージュに、「ソウェトの荒廃ぶりは、人間が希望を失い、屈辱を全身に浴び続けていればどうなるかという、ひとつの典型だ」(伊藤正孝『南ア共和国の内幕』中公新書)と書いた。


それから5年後、ソウェトでは〝非白人の教育〟に反対する抗議デモが起こった。白人の主要言語であるアフリカーンス語を、非白人に強要する方針がきっかけだ。当時の教育大臣が、「非白人は、白人の命令を理解するために学ぶのだ」と声明したことが、火に油をそそいだ。リベラルな白人も加わって全土に広がったデモは、治安部隊の鎮圧で数千人の死傷者を出す惨事になった。


南アフリカの反アパルトヘイト運動には、長い歴史がある。1920年代にアフリカ民族会議(ANC)が発足し、非暴力のガンジー主義の影響を受けて「人種共存」を掲げていた。だが、隔離と弾圧の強化によって自由のための解放闘争が精鋭化し、ネルソン・マンデラなどの指導者が投獄された。なかでも、1964年に国家反逆罪で終身刑になったマンデラは、27年間にわたって反アパルトヘイトの象徴であった。


マンデラが投獄されたケープタウン沖のロベン島監獄 / 2007年 横村出撮影
マンデラが投獄されたケープタウン沖のロベン島監獄(現・記念館) / 2007年 横村出撮影

奇しくも、伊藤が「南アフリカの解放までには20年かかる」と書いていたように、このときの取材から20年後、国際社会からの批判と圧力によって1990年にマンデラが釈放される。まもなく全人種選挙が実施され、アパルトヘイトの根幹をなす制度が廃止された。その一方で、伊藤は「白人と黒人との戦争になる」と予測していたが、マンデラは賢明にも〝全民族の融和と和解〟を掲げ平和裏に南アフリカを解放した。


伊藤の予想は、良い方向へと外れた。マンデラが最も心血を注いだのが、「復讐の連鎖をいかに止めるか」であった。1994年に大統領に就任すると、真実和解委員会を設けて人権侵害の救済に乗り出しながら、旧支配層の利権も認めて経済崩壊を回避した。〝戦争による解放〟なら、現在のようなBRICS構成国ではいられなかった。戦争に頼っては、社会の安定も豊かさも手に入らなかったうえ、分断をいっそう深めたであろうことは明白である。


*このテキストは、2023年2月に公開された著者による早稲田大学オープンカレッジのオンライン講座『戦場から読み解く世界〜ノンフィクションは何を伝えたか』から採録しました。

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