朝日新聞記者の伊藤正孝が南アフリカに入ったのは、1970年の春だ。当時、伊藤は、ナイジェリアのビアフラ戦争を取材し終えて間もないころである。人種問題をテーマにする新たな取材は、〝白人帝国〟南アフリカ政府から許されず、事実上〝潜入した〟と記している。
オランダ人や英国人が移民した南アフリカでは、人種隔離を意味するアパルトヘイトが1994年までつづいた。それは、単に非白人を差別するだけの政策ではなかった。豊富な稀少資源とその利権を、白人だけが一手に独占するための巧妙な構造的しくみだった。伊藤は、戦争より暗い「人間の闇」を暴こうと、南アで1万1千キロを旅し、地を這う低い目線から真実を描いている。
「ビアフラでは砲弾に当たる確率の問題だった。南アでは、たえまない蔑みで心がかき破られる。こんなおぞましさに長く耐えられるものではない」(伊藤正孝『南ア共和国の内幕』中公新書)
アパルトヘイトの起源は、南アの支配権をめぐってオランダと英国が戦った19世紀にさかのぼる。勝利した大英帝国は、オランダ移民のアフリカーナーとともに、非白人の居住・移動・就労・結婚まであらゆる差別を制度化し、隔離と搾取に基づく社会を築いた。伊藤は、〝白人専用(White-Only)の国家〟に衝撃を受けながら、人種の共存を許さないことで起きる「現代の魔女狩り」の犠牲者を、南アフリカの各地へ訪ね歩いていった。
この伊藤のルポルタージュは、日本国内の報道にとどまらず、英国をはじめとした欧州や国連でも紹介された。南アフリカ政府から〝名誉白人〟として、不名誉な認定を受けた日本人だからこそ、この国の矛盾に鋭く切り込めた。非白人でありながら、有力な貿易相手だったために例外扱いされてはいても、実態はどうだったか。伊藤は、あらゆる場面で「白人か、非白人か」どちらの立場に立つのかという選択を迫られた。まるで、ダンテの「地獄の門の銘のように重々しく迫る」と書いた。(つづく)
*このテキストは、2023年2月に公開された著者による早稲田大学オープンカレッジのオンライン講座『戦場から読み解く世界〜ノンフィクションは何を伝えたか』から採録しました。