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執筆者の写真横村 出 / Izuru Yokomura

作家 開高健のベトナム戦争 ⑵

開高がベトナムの戦場に入ったのは、南ベトナムへの米国の介入が本格化した時期だった。「本物の戦争が知りたい」と、戦場を志願し〝ベンキャット〟と呼ばれた密林の最前線へ送られる。従軍した米軍部隊の200人中、生き残ったのは開高と秋元啓一カメラマンを含め17人、という激戦に遭遇する。


このとき、開高は「この戦争は(南ベトナム)政府側の負けだ」と書いている。一時の感情に駆られたのではなく、むしろ冷静に戦争を観察した結論だった。南ベトナム兵には北ベトナムの同胞を殺す戦意はなく、米兵は戦争の目的も分からずに殺戮し、大半の米国人は戦場の真実を知らされていなかったからだ。


開高は、ひとりのベトコンの少年がサイゴンの広場で銃殺されたのを目撃し、太平洋戦争中に愛国少年だった自分自身と重ねた。ベンキャットでは、機銃掃射を加える戦闘ヘリに同乗し、ジャングルの泥沼を逃げまどい、大阪大空襲の体験を追想した。殺されても殺されても湧き出るベトナム人に、同じアジア人の矜恃から「神風特攻隊も同じであったか」と思いめぐらす。


南ベトナムに侵攻する米軍部隊 1966年 /  アメリカ国立公文書記録管理局所蔵
南ベトナムに侵攻する米軍部隊 1966年 / アメリカ国立公文書記録管理局所蔵

米軍であれ、ベトコンであれ、殺し合いに「ヒューマニズム」も「慈悲」もないのが戦争である。かつて日本がアジアを戦場にし、米国との決戦へなだれ落ちた悲劇を体験したからこそ、開高は、ベトナム戦争の戦場の銃後にあって、人間を凶気に駆り立てる戦争の〝闇〟の不条理を痛感した。


ベトナム全土が戦場と化し、米軍は50万を超える兵士を派遣するが、1968年の旧正月(テト)にベトコン側が大攻勢をかける。米国は〝和平〟名目の撤退を探りはじめる一方、カンボジアやラオスを空爆し戦火を拡大した。戦争の構図が一転するのは、〝中ソ対立〟の勃発による。北ベトナムを支援する中国とソ連の関係を分断するため、米国は中ソ双方に接近し、はからずも「アジアの共産化を防ぐ」という〝ドミノ理論〟の虚構が露呈する。


米国にとって、1973年の〝パリ和平〟は事実上の敗戦協定だ。開高は「(南ベトナムの指導者は)反共の名目で米ドルを引き出すことに成功し、やがて反乱によって射殺された。米国は買う札を間違った」と書いた。戦争をめぐる覇権ゲーム、利権と金を生む構図は、その後も、アフガニスタン・イラクでの戦争からウクライナ戦争に至るまで変わらない。


*このテキストは、2023年2月に公開された著者による早稲田大学オープンカレッジのオンライン講座『戦場から読み解く世界~ノンフィクションは何を伝えたか』から採録しました。

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