ロシアであれ、米国や中国であれ、覇権国の存立要件は、常に対決と戦争にある。あたかも、マグロが回遊しつづけなければ酸欠死するのと同じだ。ロシアによるウクライナ侵攻が混迷を深めるなか、ベトナム戦争が終結した〝パリ協定〟から50年目のいま、かつての戦争から学ぶ教訓は多い。
開高健がベトナムに入ったのは、1964年の秋である。南ベトナムを軍事支援する米国の艦艇が北ベトナムの攻撃で〝被弾した〟と主張、米議会が「トンキン湾決議」を採択し、ジョンソン政権が介入を本格化した時期だ。のちに〝ペンタゴン・ペーパーズ〟によって米政権の偽旗作戦が暴露された、この出来事をきっかけに「北爆」を激化させ、米国はベトナムの泥沼にはまっていく。
1930年生まれの開高は、多感な10代に軍国教育を叩き込まれ、空襲や飢餓を通じて戦争を体験している。戦後に高度成長をつづける軽佻浮薄(けいちょうふはく)な世の中の寵児となりながら、なぜ命を賭けてまでベトナムの戦場を目指したのだろうか。諸説はあるが、戦場を記録した『ベトナム戦記』からは、軍国主義から手の平返しに転向した戦後日本への疑念がにじむ。
ベトナムに残留し北ベトナムと共に戦った旧日本兵の生きざまを通じ、あたかも開高自身が、先の太平洋戦争に黒白をつけるかの記述がある。その一方で、この著作の前半までは、朝日ジャーナル誌の特派員として派遣された戦場での困惑や、国際政治のリアリズムをはじめて知った素直な驚きが吐露される。だが、開高を〝ジャーナリスト〟へと変貌させたのは、旧南ベトナム・サイゴンの広場で目撃したベトコン少年の銃殺刑の現場だった。
このころ、ベトナムの共産化を強く警戒した米国の「ドミノ理論」は、現在、ウクライナの「NATO化」阻止を主張するロシアと軌を一にする。戦略の要衝となる国家を分断支配するもくろみも同じだ。やがて開高は、「戦場の現実を知りたい」と申し出て、最前線の激戦地〝ベン・キャット〟へ向かう。そこで、「敵も味方もない、正義も悪もイデオロギーもない」、ただむきだしの殺意に自らの命をさらすことになる。(つづく)
*このテキストは、2023年2月に公開された著者による早稲田大学オープンカレッジのオンライン講座『戦場から読み解く世界〜ノンフィクションは何を伝えたか』から採録しました。