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執筆者の写真横村 出 / Izuru Yokomura

プーチン 闇の戦い ⑶

プーチンにとって、ロシアが敗北を喫した第1次チェチェン戦争を再開する〝必然〟があった。1999年9月に開戦した第2次戦争では、ロシアと和平協定を結んだチェチェン独立派に対し、過激なイスラム勢力が台頭。和平の無効化を狙うプーチンには開戦の好機だった。


ロシア側は、チェチェンでの第3勢力(=親ロシア派)の立ち上げを画策し、戦争の構図を独立戦争から〝内戦〟にすり替えた。さらに、2001年9月に起きた米同時多発テロの機をとらえ、米国の〝テロとの戦い〟への協力の見返りとして、欧米のロシア批判を沈黙させた。


だが、チェチェンの武装勢力側も、より過激な〝テロによる戦争〟へと戦術を転換。モスクワの劇場占拠、地下鉄や航空機を狙った自爆など凶悪テロをつぎつぎ実行した。プーチンはそれをも梃子とし、殲滅(せんめつ)戦を断行しながら強権支配を確立していった。


ウクライナ政変の知らせを受け、記者団に囲まれるプーチン大統領 / 2004年11月 横村出 撮影
ウクライナ政変の知らせを受け、記者団に囲まれるプーチン大統領 / 2004年11月 横村出 撮影

2003年11月、旧ソ連のジョージア(旧グルジア)で民主派による政変が始まって、ロシアの足もとに火がつく。市民の蜂起で、ソ連流の残滓(ざんし)だったシェワルナゼ政権を崩壊させ〝バラ革命〟と呼ばれた。プーチンにとって驚愕の事態は、ジョージアのサーカシュビリ新政権がNATOへの加盟を掲げ、米国の軍事顧問団を受け入れたことだ。


旧ソ連の混乱は、翌04年11月に始まるウクライナの〝オレンジ革命〟へと飛び火し、政治腐敗への怒りの矛先がロシアと通じる守旧派に向かった。親欧米派が掲げる〝脱ロ入欧〟の動きは、中央アジアの国々まで広がり、プーチンにとって容認しがたい危機となる。


プーチンは、08年にジョージアへ軍事介入して反ロ路線に終止符を打つと、ウクライナでも攻勢に転じる。エネルギー供給停止の揺さぶりや、情報戦による内政干渉などで親ロ派に政権交替させるが、14年2月、市民による〝マイダン革命〟が再燃する。親ロ政権が再び崩壊すると、プーチンはいよいよ軍事圧力でクリミア半島を併合、東部ではロシア系民兵組織を支援し〝内戦〟による分断を試みた。(つづく)


*このテキストは、2023年7月に公開された著者による早稲田大学オープンカレッジのオンライン講座『プーチン〜闇の戦い』から採録しました。

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