かつて、米国の政治評論家のW.リップマン(1889-1974)は「正しく機能する民主主義社会には、複数の市民階級が存在する」と主張した。意思決定する階級と、それ以外の〝群れ〟である。リップマンは「責任ある政治が阻害されてはならない」と考えた。〝群れ〟である市民に期待される役割は〝支持〟のみである、という。
この考え方を、言語学者のN.チョムスキーは「観客民主主義」と名づけて、痛烈な批判を展開した。観客民主主義は、権威主義や全体主義的な体制と本質的に変わらないが、その合意形成に違いがある。権威やイデオロギーの押しつけがない代わりに、事実を曲げてでも民主主義の〝観客〟の疑いを招かず、望ましい〝支持〟が得られるよう誘導しなくてはならない点だ。
だから、メディアが事実を報道しても、市民が必ずしも真実までつかめるとはかぎらない。熟練したポピュリスト扇動家は、都合の良い事実を選別して真実の全体像であるかのようにゆがめる。事実とフェイクを自在に共振させるAI(人工知能)の登場によって、真実はよりあいまいになった。リップマンの唱える〝支持〟だけを期待される〝群れ〟が、フェイクと陰謀論にはまった〝民主主義国〟もある。
深刻なフェイクに侵された米国では、フェイクの生成を深層学習したAIを駆使する監視システムによって、逆にフェイクを検知し無害化する技術的な実験が導入されている。新聞など伝統メディアの役割は、世論形成よりも、こうして科学的に検証された事実報道に絞られつつある。事実が市民を動かし、市民が〝観客〟でなく主体となって権力を監視すれば、リップマンの説は成り立たない。
一方で、どれだけ〝検証された情報〟が得られても、自ら思考し、自らの価値観に照らす営みなくして、人間とはいえない。仮にフェイクを駆逐するテクノロジーが、フェイクの生成を凌駕しても、情報の受け手にとって自らのフィルターが最終関門であることに変わりない。チョムスキーは「独断と偏見を避け、常に明白な考えのみを受け入れる」よう提唱した。「言語能力=理性によって、世界を批判的に考察すれば、自然に真実は明らかになる」という。
真実は事実の堆積にあるのではなく、自らの腑に落ちてはじめて真実となりうる。価値観が多様化するグローバル時代を生きるには、そうした考察の座標軸を絶えず点検することが重要だ。ひとつの次元でしか考えられない自国主義はもちろん、善悪や左右といった2次元的な分断思考も通用しない。フェイクニュースから真実を取り戻すとは、自らの価値を取り戻すことでもある。
*このテキストは、2021年2月に公開された著者による早稲田大学オープンカレッジのオンライン講座『フェイクニュースと国際政治』から採録しました。