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執筆者の写真横村 出 / Izuru Yokomura

フェイクニュースと政治 ⑶

国連安保理の会議場前には、ピカソの絵画『ゲルニカ』のタペストリーが飾ってある。ナチスに空爆されたスペインでの戦争の惨禍を表現した作品だ。2003年2月、当時のパウエル米国務長官が、イラク戦争を正当化する〝根拠〟を国連で発表したとき、この作品は、幕ですっぽりと覆い隠されていた。


パウエルは後になって、①イラクでの大量破壊兵器(WMD)の存在②イラクでのウラン濃縮活動③イラクとアルカイダの関係のいずれも、確証がなかったと認めた。2005年のテレビインタビューでは「あの国連での演説は、自分にとって痛恨事であって、永遠の汚点になった」と、自ら告白している。


国連で炭疽菌のサンプル瓶を掲げイラクが大量破壊兵器を保有している可能性が高いと主張するパウエル国務長官 / 2003年2月5日 米国政府・パブリックドメイン
国連で炭疽菌のサンプル瓶を掲げイラクが大量破壊兵器を保有している可能性が高いと主張するパウエル国務長官 / 2003年2月5日 米国政府・パブリックドメイン

イラク戦争とは何だったのか? 21世紀の幕開けが、人類の進歩や文明の輝かしい勝利とは無縁の、国家の嘘に踊らされて人類の血塗られた1ページを刻むことになった。ネオコンを重用しメディアを操り、共和党の勝利と大統領再選を焦ったジョージ・W・ブッシュの戦争は、陰謀論を流布し分断を煽って再選を狙ったトランプのポピュリズムと重なる。イラク戦争とその後の内戦で推定50万人の他国民の命を巻き添えにし、米国のコロナ禍では49万人超の自国民が命を落としている現実は、事実を軽視する政治の業と深く関わる。


19年前はまだSNSが未発達で、フェイクニュースの拡散にはメディアの影響が大きかった。開戦を左右したフェイクとして記憶されるのが、ニューヨークタイムズのジュディス・ミラー記者の誤報だ。当時の副大統領チェイニーにくい込んだミラーは、不確かな情報をスクープとして連発した。〝イラクがウラン濃縮に使う機器を入手〟や〝アフリカからウラン輸入〟といった当局のリークに基づく記事が、ネオコンの主張に利用された。


米ブルッキングス研究所によると、ニューヨークタイムズが掲載した2003年から06年までの記事のうち、当初は戦争を肯定する記事と否定する記事が拮抗したのに対し、2004年になって否定的な記事が急増している。当局に利用された一連の誤報記事を検証し、ようやく訂正したことが影響したという。こうして言論の自由が保障された国ですら、戦時には安易に権力に迎合し支配される。まして、権威主義の国家では言論への強要と締め付けは熾烈だ。


ロシアの第2次チェチェン戦争では、戦闘とテロの応酬が激化するにつれメディアが統制された。やがて戦争が〝内戦〟にすり替えられ、巨額の戦費や装備がチェチェンの親ロシア派へ渡り、武装勢力やテロリストにも闇ルートで渡り、双方の戦闘とテロがつづいた。いわば戦争を〝演出〟し、憲法や法律を改め、世論を操作し、国民を統制し、政権を盤石にした。半面で、戦闘の実態や正確な情報をめぐって真実に迫った少数のジャーナリストは、容赦なく弾圧された。 


戦争のからくりを暴露し、暗殺されたロシア人ジャーナリスト、アンナ・ポリトコフスカヤは、著作『プーチニズム』にこう書き残している。「腐りきった社会では、人は自分の安らぎ、平和、穏やかさを求め、そのつけを他人の命で払おうが気にもとめない。悲劇から逃れようとし、真実よりも、国家の嘘を信じる。わたしたちが、自らにふさわしい政府を戴いていると考えるのは、あまりにも恐ろしい」——(つづく)


*このテキストは、2021年2月に公開された著者による早稲田大学オープンカレッジのオンライン講座『フェイクニュースと国際政治』から採録しました。


【追記】戦争の本質である虚構を象徴的に暴露した、国連本部の『ゲルニカ』のタペストリー隠蔽をめぐっては、その後さまざまに推測された。戦争を売り込むパウエルと、反戦のシンボルとのツーショットを狙うメディア対策との説が有力だが、あの発表の本質を暗黙のうちに知らせようとした国連のささやかな抵抗という見方もできる。いずれにせよ、暴走する大国を象徴するエピソードになった。ところが、タペストリーは2021年2月に撤去され、所有するロックフェラー家に返還された。35年にわたって「戦争の悲惨」を訴えた象徴が消えた理由をめぐり、再び憶測が飛んだ。2022年2月5日、ロックフェラー家はこの作品を再度国連に貸与し、安保理議場前に掲げられている。ロシア軍がウクライナへ侵攻するかどうか、世界が固唾を呑んで見守ったタイミングである。だが、『ゲルニカ』は戻っても、ロシアの国連大使による戦争のレトリックはとどまることなく、かつての米国と同様に、根拠のない戦争プロパガンダを並べ立てて大国のエゴを押し通した。

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