フランスの作家アルベール・カミュ(1913-1960)の小説『ペスト』が、コロナ禍で再び注目された。人々はいかにふる舞い、いかに生きるべきか、不安な闇夜を照らす灯台のように読まれたのかもしれない。
この作品が出版されたのは、1947年、第2次大戦後まもなく。北アフリカのある所でペスト(黒死病)が発生し、町が封鎖される。市民は恐怖に陥り、流言が飛び交い、他人を罵り、政治は無能で、略奪や不正がはびこった。こうして疫病に冒された社会を、ナチスとの戦争に重ねあわせる読者が多かったという。今も、欧米や中国では、コロナ禍を〝戦争〟に喩えて国民を鼓舞し、社会を統制する政治家が少なくない。
これには錯誤やすり替えがある。カミュが描いたのは、不条理に蝕まれた社会と人間がどう向きあったかという物語で、外敵を打ち倒した武勇談ではない。その予言どおり、私たちの目前で起きている情勢を見れば、世界各地で隠蔽された不条理、命の格差、暴力性がむき出しにされている。市民を駆り立てる不安の正体こそ、政治が〝戦争〟や〝国難〟という名の大義で覆い隠そうとしている社会の現実そのものだ。
パンデミックは健康を蝕むが、人々の不安をあおる真偽不明の情報洪水〝インフォデミック〟は、社会そのものを危うくする。国際的な調査研究によって、インフォデミックの発生とコロナ感染症の発症率との相関性が解明されつつある。SNSなどのオンライン・プラットフォームで拡散される噂・デマ・陰謀論が、感染者数の波動のピークに先だって急増する傾向にあり、公衆衛生に悪い影響を与えているという。
パンデミックやインフォデミックの政治利用を試みる体制のもとでは、さらに状況は悪くなる。米国のトランプ前政権にみられたように、科学を軽視したデマの流布や、データによらない現状の過小評価、さらには支持勢力の陰謀論を野放しにした結果、世界最悪の感染を招いている。その一方で、ロシアや中国といった権威主義的な政治下では、自由な報道や信憑性の高い情報の発信に罰則を伴う制約をかけ、社会の統率と体制の安定を優先している。
国連の諮問機関である国際新聞編集者協会(IPI)の調査によると、フェイクニュースを取り締まる名目で、報道や言論の自由を制限する法整備が各国に拡大している。とりわけ、報道機関や野党勢力の弾圧を続けてきたロシアのプーチン政権は、新聞テレビメディアを法的に統制したのにつづき、オンライン・プラットフォームの規制に乗り出す好機と捉えている。
ジャーナリズムの視点からは、インフォデミックをめぐる政治的な介入には、諸刃の剣のように重篤な反作用が伴う。むしろ新しい技術を正しく駆使して社会不安や恐怖の原因をあぶり出し、市民社会の理性に訴えることだ。パンデミックが明らかにした世界観は、健全な民主社会ほど自助能力が高いことを示している。(つづく)
*このテキストは、2021年2月に公開された著者による早稲田大学オープンカレッジのオンライン講座『フェイクニュースと国際政治』から採録しました。